死生観を想う

どもコイケタロウです。

 

先週金曜に弟と所用でやり取りした際に従兄弟の死去を知りました。

どっからも連絡来てなかったので青天の霹靂というか。

驚いて親のところに連絡したら親もその日に連絡来たそうでそっからバタバタで、本日朝から葬儀に行ってきました。

 

47歳で乳がんだったらしいけど実は7年前から患ってて周囲の人にはほとんど告げてなかったとか。

西洋医学の医療を一切せずその他の療法でずっとやってきてたらしいけど、たぶん周囲に言ったら反対されると思ったんだろうなと。

GWのころに親御さんのところに遊びに行ったときはそんなそぶりもなく、具合が悪くなったので検査入院したらそのまま病状急変して帰らぬ人に。

 

おじさんやおばさんや二人の姉妹や一人娘さんや旦那さんにとってはもっとあらゆる手を尽くして生き延びてほしかったに違いないのは当たり前。

賛否両論当然あると思うけど、でもワタシは彼女自身はすべてに納得して旅だったんだろうなと思いました。

すべて引き受けたうえで最後まで自分の思うように生きた、というか。

だから彼女へのリスペクトで棺に花を入れるときひとこと小さく「がんばったね、おつかれさま!」とだけ声をかけました。

「でもちょっと順番違うんじゃない?」とも言いましたが。

 

家族や親や友人やほかにも大事な人たちを悲しませるようなことをして自分の想いだけで生きてもいいものだろうか。

彼女がそんな「独りよがり」な人だったかどうかもわからないし、実際はたぶんすごく強い葛藤が常にあったのだろうと思うのです。

でも自分自身の「これはわたしは嫌だ」「わたしはこうしたい」に異論を唱える権利は、最後の最後は、誰にもない。

だから大事な人にはできうる限りの関心を持ってかかわったうえで、最後はその人の「好きにさせてあげる」こと、なのではないか。

そんな風に思いました。

ほかの従兄弟たちとも話しましたが、たとえばウチのオヤジとか、もうぼちぼちお迎え来てもよさそうなのが逝くのは、みんなで思い出話に花を咲かせて飲むだけ飲んで笑うだけ笑って少しだけ悲しんで「お疲れさん!」でいいのだけれど、今日はさすがに切なかった。

親に自分の棺を持たせるようなことはしてはいけない、と言うけれど、そこは残された人たちの痛切な思いで不変だなと思うわけです。

彼女の生き方とは関係なく。

 

それでも少し従兄弟たちと話をしてコイケの親族の風潮を思い出して笑い合ったりするのはいい時間でした。

まだ小学生や中学生が酒を飲んでも問題なかったあの良き時代(いや・・だめか(笑))、正月に親戚が集まる宴会を抜け出して当時中学生だった年長の従兄弟二人がお年玉持ってスナック行った話とか(初耳 笑)、お年玉を賭けて毎年いろんな博打をやるのが親戚中の常だったので、ギャンブルの楽しさと怖さを幼少期に骨身に染みて知っているみんなはだれ一人大人になってからはギャンブルにのめりこむことがないという事実を確認したり。

ワタシの勝手な思いなんですけどね、亡くなった方は「それそれ、そういう感じで頼むわ!」と思ってるんじゃないかとも思うわけです、たぶん。

だからそういう意味では少しだけだけど、餞(はなむけ)ができたのかな。

 

お坊さんがお経をあげている間、本堂の中の空間で彼女の気配を感じてみました。

ああ、そこにいるんだね、と。

なんとなく。

彼女はとても軽そうで。にこやかでした。

 

コメント

  1. 匿名 より:

    いい記事でやさしい想いが伝わりました

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